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自分のウソを見破る

手紙



上手くはないかもしれませんが、
文章を書くのは好きです。


今日のように、懸案がすべて一段落して、
好きな事で自分を解放したい時には、
真っ先に文章(それも少し長いやつw)を書きたくなります。


文章と言うのは、伝えたい項目があるときに、
それを相手に十分伝わるように伝達する手段ですが、
書き手にとっては、それだけではないんですよね。


文字を打っていく段階で、立ち止まったり考え込んだり、
それまでの自分自身を内省して、
深い思索の中に身を沈めていく作業だとも思います。


    *    *    *    *    *    *


「書くのが好き」という気持ちがあっても、
なかなかそれを思い通りに形にできなくて、
何を書くにも、ものすごく時間がかかっていた私ですが、
そこに変化が訪れたのは、30代前半のときですね。


その頃、私は、あるアーチストが大好きで、
ファンクラブにも入っていたのですが、
当時はそれほど売れているわけでもなかったので、
周囲に思いを述べ合う仲間が誰もおらず、
たまたまファンクラブの会報で目にした、
「文通募集」の文字とその方のご年齢を見て、
自分に近い雰囲気を感じて早速申し込んだんです。


今から20年も前のことですから、
当然、携帯もPCも一般的ではなく、
私は当時、サンモール一番町にあった、
丸善の二階の文具コーナーで可愛いレターセットを
時間をかけて吟味して買い求め、
少し緊張しながら言葉を選んで、
文通の申し込みをしたのを覚えています。


ところが熱い思いを語り合うために始まった文通でしたが、
そのアーチストに思いもかけず、
国民的な大ヒットが生まれてしまったり、
その後、音楽性がどんどん変わっていたりして、
文通相手は変わることなく「熱い」のに、
私自身は、少々冷めた思いが生まれ始めて、
毎回先方の便箋に書き込められている
絶賛・賞賛の言葉に対応していくのが、
段々、辛くなってきてしまいました。


今思えば、私には、
「そうですね」「本当ですよね」と、
相手に合わせて無難にやりとりを続けていく
選択肢もありました。


でもね、自分を偽って相手も偽るのは、
やっぱり嫌だったんですよね・・・
他人を騙してしまうような
申し訳ない感覚が消えませんでした。


だから先方から手紙が届くたびに、
毎回、真剣すぎるぐらいに考えに考えて、
相手を傷つけず、でも自分も偽らず、
かつ、自分が今思っていることが、
少しの過不足もなく文章に載るような表現を、
本当に深く深く考えました。


今振り返ると、この真剣作業が、
とても気づきの多かった時間でしたし、
今の自分に繋がる大変効果的なトレーニングでした。


相手の方が「先月発売の新作も最高ですよね!」
と書いて来ても、今や自分はそこには賛同できない、
かといって、駄作とも思わない、でも、
「前みたいなのだったらいいのに」という不満は残る・・・


というときに、さすがに能天気に、
「私もそう思います。最高ですよね!」とは、
書けないのよ、やっぱり。


そんなことに気が付き始めると、
私の今までの文章は、
嘘っぱち(自分の真の本音を反映していない)だらけ、と、
段々自覚し始めて、
「じゃ、私の本音ってなんだろう?」と、
深海を手探りするように、毎回、毎回、
本気で長く内省するようになりました。


そうするとね、真実とかけ離れたことを、
自分ではそうと気づかずに書いているときは、
文章が全く進まないのよね。
変なところでつまずいて先に進めなかったり、
表現に迷ったり、何度も何度も「これじゃない」って、
書き直したり・・・


要するにこれは、自分の書いたものと自分の真実が、
無意識にケンカしているってことなんだろうなぁ…
などと思って、これでブレない、もう齟齬はない、
と思うところに到達するまで、書いて消して書いて消して、
また書き直しては、見直してまた消して・・・


もちろん先方は、そこまでのことは求めておらず、
ただ一緒に、キャーキャーと気軽に盛り上がって、
同じ思いを共有し合いたいだけなのはわかるんですが、
なんだかこのときは、こだわりたかったんだね、私。


    *    *    *    *    *    *


その後、相手の方は、方向転換し、
違うアーチストのほうに走り始め、
私もファンクラブは退会してしまいました。


今はかろうじて年賀状のやりとりがあるだけなのですが、
あのときの、自分の文章を何度も精査して、
「違う」「これじゃない」「こういうことじゃない」
と、的確な言葉を探し求めていたプロセスは、
まさに、自分の本音を自分でつかんでいく作業にほかならず、
言い換えれば、何気ない文章に入り込んでいる自分のウソを、
見つけて見破って、真の核心を特定していく
貴重な時間だったと思います。


そしてこの辺から、私は、思った事を思ったままに、
何のフィルターもかけずに、偽りなくストレスもなく、
自由自在に書けるようになってきたんですよね。


今思えば、他愛もないファンクラブつながりの文通を、
なぜ、あんなに、真剣に真面目に深く考えていたのか、
今はわかりません。


でも今は、神様がプレゼントしてくれた、
脱皮の期間だと思っているんです。
これがあったお蔭で、自分にとって文章を書くことは、
単なるコミュニケーションのひとつの手法というだけでなく、
偽らない自分の心の海を自由自在に泳ぎまわって
自分を解放するための有効な手段であることがわかりました。


ただ、文通相手のTさんには今も謝りたいんですよね。
あのときは、真面目すぎてごめんね。
Tさんのワクワクする熱くて盛り上がる気持ちを、
しっかりとキャッチできなくて、ごめんなさい。


Tさん、このブログ、見てるかな。
今は二人ともお互いに、孫がいる身ですけどね(^_-)-☆


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笹崎の反省01~受身はいかん

Facebookのほうに書いた文章です。

場の雰囲気や空気は自分で変えていくもの。

話し言葉で気楽に書いていますが、
よろしければ以下でご覧ください。
http://ow.ly/wbtt0




別れの朝になるなら

朝_w200



昨日、仙台中央倫理法人会のモーニングセミナーで、
スコップ団 団長の平了さんから、
震災後の泥かき活動で見聞きした様々なお話を伺いました。


あるおばあさんが朝のうちにおじいさんとケンカして、
おじいさんが車で出かけるときに、
「どっかにぶつかって死んでしまえ」
と心の中で思っていたらその日に地震が来て、
おじいさんは亡くなってしまったそうです。
おばあさんは「あんなこと思わなければ…」と、
いまだに後悔し、その事をずっと思い続けているそうです。


あぁ、わかります。
これ、私もすごく気を付けている事なんです。


東日本大震災で改めて思った事は、
私達が物事に対して予想をつけていることなんて、
しょせん長い長い地球の歴史から見たら、
ものすごくほんのわずかな情報だけを元にしている現代人の浅知恵で、
実際は私達が今まで経験した事のない、
どんな事が起こってもおかしくないし、
それはいつでもあり得るんだな、ということ。


そうでなくても世の中は、
事件や事故や災害などでいつ何があるかわからないのだから、
出かけるのを見送った朝がたとえ最後の朝になったとしても、
「行ってらっしゃい」と声をかけた家族と自分がそれぞれに、
家族として幸せだったと思える別れを迎えられるように、
自分はいつでもどんなときでも、
家族に対して幸福を提供しないとダメだな、
と、より強く思うようになりました。


元々小さいころからそんなに仲が良くなかった母に対しての、
拒否的な態度を変えたのも全く同じ理由からです。


70代(当時)を迎えた母の今後を思うと、
病気や怪我や事故である日突然亡くなってしまったら、
母の人生は、娘に認められず受け入れてもらえず、
嫌われて悲しくて寂しくて切ないまま終わる人生になっちゃう。
自分自身がその後も後悔せずに顔を上げて生きていくためにも、
このままじゃあかん!と思ったからなんです。


私がはみ出し者の娘だったせいで、
小さいころから母は私に対しては否定的で否認的だったのですが、
そこに反発を感じて母を嫌い、母を避けて嫌悪している様は、
自分がやられて一番嫌だったことを人にもしている、
と、思ったんです。夫にも同様。ダメじゃん、あたし。


それからは考えを改めて、
いつなんどき、不意の別れがやって来たとしても、
お互いが、親子でよかった、夫婦でよかったと、
思える最期を迎えられるように、すごく意識するようになりました。


だから今は家族のお出かけは必ず玄関先や外まで出て、
明るい声と笑顔で見送ります。
怪しい雲行きの時は、出かける前に解消しておきます。
事故や災害がなくなって、生には限りがあるのだから、
いつか別れは必ず来るんだよ。


やがて来るそんな日に、
今日、今の、この日このときの事を思い出して、
楽しかったな、幸せだったなと思えるように、
家ではいつでも暖かい空気と笑いのある会話を心がけてます。


だって夕ご飯のときにふと思うんだもん。
今日のこの一瞬を懐かしく思う日が必ず来る。
そのときのために、今しかないこの時を大切に過ごそうって。
顔、声、会話、笑い、しぐさ、いつか会えなくなる日のために、
幸せな気持ちと一緒に記憶にしっかり焼き付けておくんだ!


自分がまずそう思って雰囲気づくりに努め、
いつでも褒めて認めて感謝していると、
家族の会話って本当に質が変わって来るんですよね。


朝、仕事に向かう夫や外出する母を見送るたびに、
震災後は「これが最後かもしれない」とよく思うようになりました。
でも今日は大丈夫!母も夫もイキイキと笑顔で出かけて行ったから。
うん、オッケー!そう頷くところから、私の1日が始まります。
 

 
 

 

SOSは全体の利益

先ほど電話会議が終わりました。


私ね、今回結構反省したのよ。
色々な活動に加わって、
色々な役割を担当するときもあるんだけど、
自分の変な真面目心が災いして、
SOSを上げるタイミングが遅れちゃうんだよねー


本当は仕事が超忙しい時期と重なって、
今それをできそうにもないのに、
「合間見てやろう」なんて真面目に思っちゃって、
ヘルプも要請せずに「頑張ります」なんて言っちゃって、
で、結局やっぱりできなくて、
結果的に全体の不利益になるよりは、
早々にギブアップのサインを出して、
早めに誰かに変わってもらった方が、
全体にとっても相手にとっても、
いいってことが、わかっているけどなかなかできない。


でもそれ、結構みんな同じだと思うの(笑)。


だから、そういう仕組みと空気を、
作りたいな~と思って、
今回の電話会議ではあれこれ提案してみました。


できない人をすかさず誰かがカバーする、フォローする、
でも誰も恨まないし誰も憎まない。
そんなカラーが生まれればいいな。


やっぱり、活動の継続には「楽ちん」が一番だからね(^_-)-☆
えへへへへへ。

パーソナリティ理論

lits05_intro01_l[1]




今日は外出先で少し時間ができたので、
手元のスマートフォンで、
クロニンジャーのパーソナル理論というサイトを読んでいました。
こちらです⇒「クロニンジャーのパーソナル理論
※画像もそちらのものです。


性格は遺伝子に関連性があるとして、
ドーパミン、セロトニン、ノルアドレナリンなどの、
神経伝達物質やその遺伝子の型について述べているのですが、
私はこういう考え方が大好きなんですよね。


自分が好きだというだけでなく、
むしろ多くの人に知って欲しいと思うんです。


なぜなら、人には元々持って生まれた志向性があって、
それは生れついてのものなので、
そもそも、そこは自分ではコントロールできないということ。


もしその後、様々な経験を経て学習し、
色々なその人なりの価値観や好き嫌いができていったとしても、
それだって、やっぱり自分ではコントロールできない。


小さい頃から可愛がられていい人達に囲まれて育ち、
素直で伸びやかで人を疑わない性格になろうが、
両親に愛されず友達にも恵まれず騙されたり傷ついたりして、
自分も他人も肯定できない屈折した性格になろうが、
それは本人が自ら望んで選択した結果ではないということです。


だから相性が悪く好かないヤツと思ってもその人に罪はなく、
その人の存在自体を憎み蔑むのは、よろしくないと思うんですよね。
好きでそうなったわけじゃないんですから。


むしろ、そうなるに至った原因はどこかに必ずあると思って、
生い立ちを聞いてあげたり、行動を客観的に観察して、
なるほど、こういう傾向と志向性がある人なんだなぁ…と、
理屈で納得して理解していったほうがいいと思っているんです。


自分のコーチングはその考え方がすべてのベースになっています。


今自分が持っている性格が、
遺伝と関係あったり、
自分のそれまでの人的な環境に影響されていると聞くと、
自分の性格が嫌いな人は絶望的な気持ちになると思いますが、
決してそうではなくて、
「私はたぶん生まれつき持っているのはこういう資質で、
これこれこういう経験を通して何に不安を持ち何にこだわり、
結果としてそれがこういう長所に活かされ、
こういう短所として、自分のデメリットになっている」と、
自分で100%自分をわかり、認めて肯定していくことで、
自分でそれに対して対策が取れるようになるんですよね。


私は経験上、すごくそう思います。


私はDiSCでは、プロモーターというタイプで、
人に影響を与えるのが好きでホメられるのも好きで、
どちらかと言えば外交的で話し好きな傾向ですが、
クロニンジャー理論に当てはめると、
新奇性探究(ドーパミンとの関連が想定)や、
報酬依存(ノルアドレナリンとの関連が想定)だなぁと思います。


刺激がなく決まりきったことが型どおりに続いていくのは苦手です。
すぐき飽きて、集中力が切れてしまいます。
だから数の計算などはキライ(笑) ちっとも面白くない(笑)
5から3を引いたら2になるのは「決まりきった事」でつまらないから。


ですが文章を書くのは好きです。
様々な言葉を組み合わせて、
今自分が感じている思いと自分が出力する文章を、
寸分違わずに一致させていく作業は、
高等なパズルに取り組んでいる気持ちに似ていて、
とても心が静まり集中し、安定します。
けれど大きな刺激もあるのです。


それと結果を出すのも好きです。
営業系のお仕事だと数字を上げていくのが面白くて、
ついついのめり込んでしまいます。
やっぱり「報酬依存」だなぁと思ってしまったりね。


あるいは、あとちょっとで、
取り掛かっている作業が完成しそうだと、
出かける時間が迫っているのに、
なかなか、あっさりそれをやめることができません。
これも達成感(結果)が欲しくて依存しているのかも。
なのでお仕事以外の外出は、案外遅刻ギリギリが多いです(笑)


思考の癖としては、
一つの物事をじっくり考えているよりも、
連想ゲームのように次から次と、
色々な物事が頭の中に浮かんで来るほうです。
だから言葉数が多いし、
話すスピードも早くてテンポがいいけど、
一つの事だけをじっくりブレずに話す安定感には欠けます。


また、少し前までは母親との価値観に大きな違いがあって、
向こうから見れば私は、理解できないダメダメなところが多く、
母として恥ずかしい存在であり、常に修正の対象だったので、
逆に私は、人から何かを指摘されたり叱られることに過敏で、
それを自分からできるだけ遠ざけたい気持ちが強かったと思います。


こういった、今日現在までのあれこれが統合されて、
関連し合って「私」という人間が形成されているのですが、
それらはときに長所として顔を出したり、
短所として失敗を引き起こしたりして、
そのたびに、「あぁ、そうよね、確かにね」と思うわけです。


今日のタイトルは「パーソナリティ理論」だったのですが、
元々のタイトルからすでに内容がかけ離れてしまっているのも、
「私」らしいですよね^^


要は、自分がそうであれば、相手もそうだと思うことが、
大切なんじゃないかな。
私はたまたまこうだけど、あなたもたまたまそうなのよね。


そんな執着のない割り切りが、
いい人間関係を作っていくと思うんですよね。


「パーソナル理論」自体は、
途中から難しくなってきて読みにくいのですが、
自分を知って他人を知って、
それを否定せずに受け入れるためにも、
こういった解説は、
少しだけでも触れておいた方がいいと思います。


捨てて捨てて生きていくのだ。

koudou_toji_kakko.jpg



ここ数日、なんとなく気乗りしなくて、
日々手つかずのまま後回しになっていたのが、
長男の結婚式に参加してくれる親戚の、
着付けと髪セットの取りまとめ。


私、冠婚葬祭って超苦手なんです。。。
というか、この年になっても「よくわからない」というのが、
非常にお恥ずかしい話しなのですが、
やっぱりそういう、普通は誰でもわかっていそうなことが、
「わからない」というのは、
大きな劣等感もありましてですね^^
ひとつひとつ何をするにも不安が先立ちまして、
小さなことでも、ものすごく躊躇しちゃうんですよね。
有体に言いますと、なにをやるにも「怖い」んですね。


ところがそういうところにあまり悩みのない友達も一杯いるんです。


ある私の友人は、昨年ご両親のお葬式を出しました。
でも私は自分のそんな感覚なので、
自分たちがお葬式を出すなんて、えーどうしようという感じです。
もう考えたくもないよーーーーー!!
…と、彼女に話すと、けろりとした顔でこういうんです。
「そんなの慣れている人なんて誰もいないんだし、
だいたい葬儀屋さんがみんなやってくれるんだから、
言われたとおりにやっていればいいわけだし。。。」


なるほど。確かに。それは確かにその通り。
やっぱり経験者の発言は説得力とリアリティがあります。


でも私ね、ちょっとだけレイアウトの仕事をしていたときに、
ある衣料品店の広告制作で「この辺に適当に花の写真貼っておいて」
と代理店さんから言われて、
なーんにも考えずに菊の花の写真を貼った人です(笑)


…で、当然ものすごく怒られました。
「こんなこともわからないの?」って。
でもね、わからない人っていうのは、
自分が色々わかっていないという事すらもわからないものなのよね。


だから、専門用語が出てくるたびにドキドキしちゃうわけ。
留袖という言葉さえ、私にとっては立派な専門用語です!
何が留袖なんだか、全然わかんないよー!
襦袢とか言われたらさらに難易度高いから、
きっと汗かくと思います。


この大きな劣等感は一体どこから来るのか?
それはたぶん、そもそも自分がセレモニーとか、
しきたりとか習慣とか、TPOの服装とかに、
あまり興味がないところから来ていると思います。


興味がないから何も考えずに素で普通に振る舞って、
あとで思い切り母親に怒られるわけです。
「なんなの?今日のあれは?」って。
またはすぐその場で、ブリッブリ感情的に怒られます。
それはもう、最大限に恐怖でしたよ。


そうでなくても、そそっかしくて、
全身が凍りつくぐらい、しょっちゅう怒られていたので、
内容がなんであれ、「怒られる」ということに、
ものすごく過敏に反応してしまうんですよね。


以前聴いた白石豊先生の講演会のお話で、
自信のなさはセルフイメージの低さで、
セルフイメージは、他人からの声掛けと、
自分自身からの声掛けでつくられる、というのは、
誠に真実でまさに本当だな、と思い知らされます。


それではいったい今の私は、何を恐れているの?
もう子供じゃないし母はほとんど怒らないし。


そう思ってよく考えてみると、
「わからない」「わかっていない」という事が、
要所要所で他人様に露見する事が怖いんだね、私は。


親戚にホテルでの着付けや髪セットの予約が必要かどうかを聞くのも、
もっと突っ込んだ専門用語(具体的には留袖等(笑))が、
出てきたらどうしようとか、
これまた一切まったくわからない和装の小物類に関して、
聞かれたらどうしようとか、
そう思うと億劫で面倒で不安でしょうがないわけ。
だから1日1日と先延ばしになっちゃう。。。


    *    *    *    *    *    *


ですが、それでいったい誰が迷惑で誰が傷つくんだい?
と自問してみると、単に自分が恥ずかしい、
ただそれだけなんですよね(笑)


だから「恥ずかしい」さえクリアしちゃえばいいわけです。


じゃなんで「恥ずかしい」かというと、
人に良く思われたいとか、自分の評価を落としたくないとか、
そういう自分の欲が発端になっているんだね、これが。


で、あれば、そこはあっさり捨てちゃえばいいわけです。


「えー、こんなことも知らないの?」
「はい、そうです。」


「笹ちゃんって本当にわかってないよね。」
「その通りです。」


「そんなに無知で大丈夫?」
「大丈夫じゃありません。だから教えてください。」


これだよね。
わからないから教えてください。


考えてみたら「教えてください」って言わらたら、
私ならうれしいな。
それに仕事の目線で言うと、「わからない」を理由に、
物事に逃げ腰な人には、個人的にあまり好印象がないし、
「わからない」を連発する人には、
「だったらわかれよ、努力しろよ」って思います。


だから、認めたうえで覚えたい姿勢を見せる、
そこはちょっと頑張る。それがいいかな。
だってそれが現実だもの、
見栄張ったって、こればっかりはしょうがないのだ!


    *    *    *    *    *    *


…という、七面倒くさいを心のプロセスを経て、
ついに先日、皆さんに電話。
終わってみれば、なんてこたぁない、
全員、洋服だってさ(笑)
あー、よかった、世の中そんなものよね♪(←急に強気www)


でもね、だから私、不安の強い人や、
何かを苦手に思って前に進めない人の気持ちってよくわかります。
そういうときは、等身大の自分を素直に認めて、
周りからよく見られたい思いを、
ひとつひとつ捨てていくしかないんだよね。
だって、「わからない」のは確かな真実なんだもの。
そこを認めないうちは、何ひとつ変わっていかないと思います。


皆さんが思っている以上に、
苦手なものや苦手な事、劣等感や不安が強い私なのですが、
毎回そんな対象を見つけては、つまんで拾い上げ、
「こら、お前、いったい今度は何にこだわっているんだい?」と自問して、
「ほら、またよく思われれようと思っている!」と気がついて、
ほんでもって、虱潰しのようにそれらを、
ひとつひとつ捨てていくんだよね。


明るく強く前向きに生きていくということは、
自分にとってはそれの膨大な積み重ねなんだな、と思う毎日なの。
本当にそう思います。


自分の価値

00237514_w160.jpg

今日は5月11日。
震災(東日本大震災)から2ヵ月経ちました。

 

昨日津波の被害にあった多賀城の産業道路を通りましたが、
要所要所のガレキの山や壊れた車、復旧していない信号など、
津波の跡を感じさせるものはたくさんありましたが、
もし何も知らない人がここを通ったら気が付くだろうか?と思うぐらい、
普通に車がビュンビュン走っていました。

 

「沿岸部は全然違うから!」と友人達にもよく聞きますが、
自分の個人的な気持ちとしては、思った以上に復興の速度は速く、
どんなに猛スピードでここを整備したのだろうと思うと、
すごいなぁと感嘆させられました。

 

    *    *    *    *    *    *

 

震災直後で電気もまだ通らず不自由な生活だったときには、
うちの母が自分で用意していた携帯ラジオやローソクなどのお陰で、
私達は本当に助かったのですが、彼女はそのたびに、
「私が買っていた」「私が準備していた」
「こんなときのために私が備えていた」って事あるごとに言うんですよね。

 

この非常時にちょっとシツコイぐらいなので段々苦しくなってきたんですが^^
逆に「不安なんだなぁ…」と気が付いて、
そのたびに「ありがとう」「やっぱりさすがだね」「助かった!」「お母さんのお陰」
を連発していました。

 

たぶんこんな未曾有の大災害の時には誰もがすごく不安で、
うちの母も自分の存在感を何度も確認したかったんだと思います。
だから母に感謝して「お母さんのお陰で今こんなに助かっている」
と言ってあげることが、母の気持ちを安定させるのかな?と思いました。

 

    *    *    *    *    *    *

 

震災の数日後、近くのドラッグストアに早くから並んでいて、
ひとつ前の方(30代男性)と話す機会がありました。

 

10時開店なのに7時前から並んでいるのですから、
その間ずっと長話をしたわけです。
(そのときの内容はこちらにあります)
(MIXI日記でしたが時間も経ったので文書で上げておきます)
(県外の方なので地名を亘理と言っていますが実際は山元町でのお話です)

 

そのお話の中で、
「運び出した遺体をご家族が引き取っていくと救われたような気持ちになる」
と話していたのがとても印象的でした。
文中には書きませんでしたが、
自分達が回収した遺体がいつまでも引き取り手もなくずっと安置されていると、
ご家族も全員亡くなったのかなぁ…と思って虚しくなる、と言っていました。
「悲しい」のではなく「虚しい」と言っていました。

 

それはたぶん、意欲の源だと思うんです。

 

本当にキツい仕事だったみたいですが、
たとえ人が亡くなるという悲しい結末でも、
家族が遺体を安置所で亡くなった方と対面し、
やがて引き取られていくというのは、
自分達が誰かの役に立っている実感であり、
今の作業を乗り切っていくためのモチベーションでもあるんですよね。

 

だからこのたびの震災ですごく感じたのですが、
「誰かの役に立つ」というのは、心のエネルギーであり自分の価値であり、
今社会とつながって生きている証でもあると思うんです。
それが人に幸せや、
満ち足りた気持ちをもたらしてくれるもののひとつだと思いました。

 

たくさんのボランティアの方達も各地から集まる救援物資も、
(敢えて誤解を恐れずに言えば)
自分の価値を再確認するための行動なのかもしれません。
それは一人では生きていけない人という動物の本能なのかもしれないですね。

 

    *    *    *    *    *    *

 

翻って今自分の周りを見渡すと、
自分に自信がなかったり、自分の存在価値を見つけられずに、
大きな不安や悩みを抱えている方がたくさんいらっしゃいます。

 

そんなときには、
人に感謝されるような何かに取り組んでみるのも方法だと思います。
自分に好感を持ってくれる人に従属的に精神依存するのではなく、
ちょっとしたところでも、
「人のために」「あなたのために」身を削ってみる。
そこで得られる「ありがとう」があなたを救ってくれると思うんですよね。

 

不安や悩みの真っただ中にいると、
なかなか理解してもらえない自分の辛さが世界の中心になってしまい、
わかってくれる人だけに心を開き、
そうでない方をシャットアウトしがちですが、
そんな方にも感謝されるような行動を取ることができたら、
きっと状況は変わっていくと思っています。

 

自分の価値を上げるってそういう事だと思うんです。
それが自信になり生きる強さになって、
結果的にあなたを変えてくれると思います。

 

先日「自分は生きる価値がないのでは?」というメールをいただきました。
その方の事をすごく考えて、
今日はこんな文章になりました。

 

震災から2ヵ月、
まだまだ厳しい生活の方もたくさんいらっしゃると思いますが、
お互いがお互いの役に立っていることを、
実感できる仕組みやイベントがあれば、
みんなが今以上に意欲的に歩いて行けるのかな?
そんな風にも思いました。

 


 

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